華の都にほしい歩行軌道占有権

世界最大の都市に暮らしているのだけど、世界最大な分、狭い道にたくさんの人、人、人って感じに人がいる。ボトルネックの場所なら世界中どこでもある混雑が、ボトルのネックだけじゃなくてボトル全域で混雑しているのが東京だ。毎日の通勤の苦痛は大都市ならどこでも同じだけど、歩いて苦痛を感じる頻度の高さは東京が群を抜いている。歩いて苦痛、別にレゴを踏んだわけじゃない。まっすぐ歩いているだけなのに、前から自転車が突っ込んできたり、横から前に割り込まれたり、集団が道を塞いでたりって感じだ。宇宙空間には軌道占有権が存在する*1が、ちょうどそれと同じように歩行空間にも軌道占有権……ほどまではいかなくてもまっすぐ歩くひとに優先権が欲しい……。しかしよくよく考えてみると、まっすぐ歩くという概念が難しい場所*2があったりするからもうよく分からない。電車の車内混雑を自由な出社時間で避けられても、人の混雑は避けられないのであった。

*1:今検索にかけたらほぼ天冥の標しか出てこなかったので存在しないかも

*2:横幅が極端に広く、縦には狭い上に柱があって階段があり、メトロと都営で改札が別れているが内部ではつながっている九段下駅とか

依頼している側なのに金の話をしない人間は全員地獄に落ちるべき


タイトルでほぼ全て言い切ってて、このツイートで僕のソリューションも書いたのだけど、仕事をし始めたころ、そういう人ばかりが依頼をしてきた*1。直接ミーティングをしてもなかなかお金の話をしないから、日本社会では金の話を明け透けにするのするのは良くないこととされるし、それまで経験ゼロだったから仕事ってそういうものなのか?って思ったのだけど、結局そういう人たちは出来る限りお金を払いたくない人たちだった。安く請け負ってもその後にそれを取り返す良い話は来なかった。
だから、仕事を始めたばかりとか、まだ全然したことない人は気をつけて欲しい。金の話を自分からしない依頼者はダメだということだ。まぁ、仕事の依頼というのは、いきなり具体的な金額をつけて来るものではないので、より具体的なソリューションに落とし込むと、最初のメールの返信で、仕事の形(納品するのか?講師なのか?コンサルなのか?)と予算を聞いて、そこで明確に答えられないようならお断りするというのが良いと思う。予算聞くと見積りを出してと言う方は多いが、そのときは人日5万円で出すと良い。

例外

例外はある。お金と釣り合わないけど受ける仕事だ。それはその仕事単体で次に繋がるもの(新しい技術を試せる、自分がやったことのない分野である等)のみを受けている。そこでは「人のつながり」というものはあまり考えない方が良いというのが僕の結論であり、TwitterでもたまにRTで流れてくるくらいには一般的な処世術である。単体でクソな仕事を頼む人というのは大抵クライアントとしては良くないのだ。

*1:ツイートにもあるがそういう人の金を出さないバックグラウンドとして社会人以外を舐めてる日本社会というのは絶対あると思う

超優秀だけど就活には失敗したんで✋

わたくし世界を股にかけるグローバルなOLな熊なのですけど、就活には失敗したんで恨みがあるんですよ。今でも"就活 死にたい"で検索してここのダイアリに来る人絶えないぐらい恨みのこもったエントリ書いたこともあるし。
ほいでな、就活エリートマジムカつくんすよ。そういうやつらクライアントに多いし。僕より出来ないのに年収上だし。そのくせ「えー!就活ってさー、そんなに難しく考えなくていいんだよ(^_-)-☆」みたいなこと言われると、お前ちょっと大久保病院の裏手に来てくれる?って詰め寄るレベルで怒りが湧くんで、きのう増田のエントリ読んでまぁそういう怒りが沸いたんでこの記事書いたんす。*1
anond.hatelabo.jp

ビジネス的なモード

就活エリートたちって大抵、外形的に優秀なんすよ。コミュ力に優れているってよく言われるけど、優秀そうな外見、言動、声質とかがあるんす。ここで「優秀そうな」は「ビジネスできそうな」と同じ意味です。それ全体をビジネス的なモード*2と呼ぶことにするね。ほいで見た目は分かりやすいじゃん、でも他の部分も結構効いてきて、そしてそこもまたDNAを超えられないのがあるんだよ、声とか。DNAじゃないようにみえるところ、言動とか立ち振舞とかも、実際21とか22になると変えるの難しくなりますからね。
でも、そういう外側からのぼんやりとした印象がビジネス的なモードに合ってるかどうかというのはすごく強く人間に影響を与えてるんだ。そして、僕にはそれがない。DNA的にもそれ以外でも。就活中はなんとか合わせようとしたけど、結果はついてこなかった。

技術(もしくはその伸びしろ)だけじゃダメだった

就活において技術は重要ではなく伸びしろが重要なのは言うまでもないけど、今はハイパー優秀な熊*3なんで、技術的な伸びしろは感じてもらえてて、だからCTOとの面接まで行ってその次の社長で落ちたし、3回目の技術者との面接の次にディレクターに会って落ちたとかもあった。

実績あれば技術で殴れる

学生が技術あっても就職できないのは、実績がないからで、実績というのは具体的にその技術の対価にお金を得たか、ということ。なので、技術持ってるし!って感じのひとはさっさとバイトでいいから働いて、こういうもの作りましたよって言えるとビジネス的なモード持ち合わせてなくても👌になるから👌になろう。
僕がこれでもう大丈夫だなって思ったのはiOSアプリで、iOSの根本はNEXTSTEP時代の優れた設計が底流にあるんだけど、そこの雰囲気つかめてGUIアプリならまぁもう大丈夫だなこれはってなったからなんだよね。そして、もうひとつ大事なのは他の人との調整で、ディレクターと他のパートを担当するエンジニア(Webサービスだったらサーバサイドとか)、あとデザイナー、そして上層部とのやり取りや根回しにiOSアプリの開発で慣れたので、少なくともiOSエンジニアとして最低限は満たせたなと思ったわけ。それに加えてiOSエンジニアって引く手あまただから困ったらiOSをフルタイムでやれば大丈夫という思いが強く自分を支えていて、最近ようやく自己肯定感が出てきて行ったことのないフルーツパーラーを巡れるようになった*4

技術で殴れるお仕事

そもそも技術で殴れるような引く手あまたの仕事、どこに転がっとるんじゃいっていう話だけど、自分の肌感覚だと以下の仕事はそんな感じ。Web系じゃねーか!って言われるとまぁ近いところにいたんで✋ってことで。他にこれも!っていうのあったら教えてください。

  • iOSエンジニア(まだAndroid出来なくても売り手市場ぽい)
  • Androidエンジニア
  • サーバサイドエンジニア(クラウド出来る人)
  • 看護師(国家資格だけど医者よりは遥かになりやすく引く手あまた)

ビジネス的なモードふたたび

いくら優秀になってもやっぱりビジネス的なモードからは逃れられなくって、そりゃビジネスだからそうなんだけど今でも初対面だとアシスタントで入ってる学生みたいな軽い扱いされるんで、人のスキルも見抜けない上に人によって扱いを変える愚か者めって思いながらミーティングしてます。基本的なラインを確認せずに終わりそうになったらアホっぽい感じで聞いてあげてます。ビジネス的なモードって優秀なフリをしたがるから、そこは当然分かってますよ〜みたいな顔したがるんで、特にそっちのモード持つこと諦めた僕からだとその抵抗ないので聞けるんだよね。ほら、優秀な🐻だからね。

おわりに

ビジネス的なモードというやつはビジネスマナー研修とかで作られたりするので、そこ全てに逆らって生きよう、そう思ったのが就活の失敗というイベントで、だからそっちに迎合したら年収が100万円上がるとわかっても迎合しない熊生を送るつもり。やっぱ松下幸之助よりラリー・ウォールっしょ!怠慢!短気!傲慢!

*1:書き終わった今見てみたら、前書いたエントリと同じ流れで書いててこの熊進歩がない……!て思った

*2:ここでのモードとはファッション的な意味合いで捉えてくれ!

*3:ひとりで案件取ってきて、全行程担当して、ひとりで現地語喋れない海外行って設営して帰ってくる

*4:笑い事ではなく、一時期は失敗する余裕がなくて行ったことのあるチェーン店しか入れなかった

大学の良さについて(いわゆるFランも含めて)

日本の大学全体について、いわゆるFラン、低偏差値の大学は必要ないとかトップ校だけを残して集中させるべきとかって意見を結構見かける。これに対して統計的な反論として、いわゆる低偏差値の大学でも学力が向上するし意味あるよっていう話はSYNODOSかどっかで経済学者がしてたと思うのだが、それはさておき、僕はそういう統計的な面からではなく、大学という場所が提供するものそのものに良さがあってそれは、大学のレベルの差に関係なくあると思うので、大学の存在ってすごく良いと思ってる。だから大学の数を減らすよりもむしろ増やして学費を無料にし誰でも入れるようになってほしいのだ。じゃあ具体的にお前の考える大学の良さってなによ?ってことになるが、理不尽が少ない場所であること、学問をする場所であることの2つだと思ってる。

理不尽が少ない場所

僕の人生の中で、最も理不尽が少ないのは大学だった。大学を出て働きだしたら理不尽なことが多かったし、その前の義務教育と高校もまた多かった。一方、大学は理不尽なこと自体は他と同じくそこそこあるが、デカい理不尽、パワハラやセクハラみたいなことが全然少ないというかほぼなかった*1。あったとしてもちゃんと報告すればちゃんと対応されるんだろうなっていう安心感があった。大雑把に言うと大学にいたときが最も自分が人間として扱われている*2と感じた。

学問をする場所

大学とは学問をする場所である、ということに誰も異論はないだろう。高校まではそうではないからしんどかった。高校までの先生は、何かの教科を教えている仕事を権力関係を確認し教え込む仕事の補助でしている、という人ばかりだった。国語の作者の意図を問う問題と同じで、実際に作者がそう思ってることよりも、ある思想がありそれに基づいてる答えを出せというやつで、先生たちは生徒の学力が向上することよりも扱いやすい人間であることの方が喜ぶんだなと思っていた。先生たちの意図したとおりにぶつくさ言わずに動くことが求められている、と。質問とか議論とか全然推奨されなかった。高校までの教育でそれに慣れたので、大学でもそんな感じでいたら、どうも大学の先生たちは違うな……と3年目ぐらいで気づいた。質問しても嫌がらないし、言われたことなんでもしますよって姿勢をしても喜ぶことはない。そこで恐る恐る自分の意見とか言ってみたり、先生の意見に反発してみたりしたらむしろ面白がってくれて、ああ、本当に自分の意見を言っても怒られないのだと気づけた。プラトンが質問とそれへの回答という形で著作を残したように、学問において質問というのは大変重要で、大学の先生が質問を喜ぶのはごく自然のことなのだが、個人的にはここの体験がとても大きくて、洗脳から解けた、というぐらいのインパクトがあった。
研究が学習と本質的に異なることを知れたのもまた、面白い体験だった。スキルを身につけることと知識や体験の探求というのはぜんぜん違う。研究という手法をうまくやれるかどうかは、知識量の多寡では決まらなかった。基本的には試行錯誤で、しかし試行には大量の失敗がついてくる。でも受験勉強では大量の失敗という経験を提供してくれなかったので、当初はまったく慣れなかった。そのうち受験勉強と同じ列にあるものではないことに気づいて、むしろこれは図画工作とか美術の授業側だって気づいた。中等教育では傍流とされている科目が研究においてはこんなに重要とは……と振り返ってみて改めて思った。

おわりに

大学の良さとしてあげた上記2つは相互に関わっていて、学問をする場所である、という分かりやすい目的があるから理不尽が少ない(学問をする場所だよねーって合意があり、基本的に規則等がそれに沿うから)という面もあるし、学問というのはそもそも理(ことわり)の追求だから理が不尽であることが少なくなるということもあると思う。そんな大学に入って、なんて自由でいい場所なのだ!って思って大学出たら、また不自由や理不尽がやってきて改めて大学の良さを噛み締めてるので書いてみた。一旦働いてから大学院に入ったほどだしね。今、大学は国の方針で変えられようとしていて、これらの良さも無くなってしまう方針が垣間見えて、それがとても残念だ。

*1:但し学生の場合のみで教員や職員の場合は話が別だと思う。非常勤講師問題や雇い止め、運営交付金の年1%減など

*2:今働いてる環境もそうなのだが、前はそうではなかったので勝ち取った感じが強く、無条件で人間扱いされない絶望がある