ゆとゆとは今 - 日記を書く

今日は誤解について書く。

他人の誤解

誰かが自分を誤解することは良くある。その辺の石ころ並みにしょっちゅう誤解は起きてる。全ての誤解をいちいち解く人はいないし、表明されない誤解は表明される誤解よりも圧倒的に多い。だから私たちは誤解の中で生きていると言っても過言ではない……というような新聞に投稿しちゃうような委員長的まじめな優等生文で、いかにもな前置きをしますが、誰かが誰かに誤解するという事は、コミュニケーションの問題。


コミュニケーションの問題なので、親しくない人の誤解は、どんなに大きくても解く気にはならないし、それで問題ないですその人がその誤解を僕にとって親しい人に伝えたらという問題はあるけど。僕にとって問題は、親しい人の誤解。ありのままのわたしを受け入れて!みたいな願望は無いので、些細なのは放っておくんですが、大きな誤解は解かないといけない。でも放置しちゃうんだよな。特に大きな誤解は放置プレイし過ぎてる。


それによる将来の不利益は、後ろめたさを除いてもかなり大きいのは分かっているんだけど、誤解を解くエネルギーがない。本当はあるんだけど、問題の大きさと、それに費やすエネルギーを考えて断念するというか。登れば登れてしまう壁であることは分かっているのに、すごく高い壁だから登るのをあきらめてしまうような状態。


誤解を解くコストより、日々を少し気を使って生きる事を選んでるということですね。それもありと客観視すれば分かるものの、これは間違っていると感じているのはなぜなのかな。なにをしたいのか。したくないのか。ある種の誠実さが邪魔をしているのかな。誤解を解かないということは、嘘をついていることと似ているというか、消極的に嘘をついてるのと同じだから。多分、そのへんだね。親しい人との大きな誤解は解く事が義務と感じているんだな。


それは義務なのかというと、実はそうでもない。単純に僕は誤解を解きたいだけなのか。ああ、そういうことなんだ。ここに辿り着くのにこんなに書く必要があるとはね。「誤解を解く必要がある」ではなく「誤解を解きたい」だから問題なんだ。ごそうなると、誤解を解くか、解く必要のある誤解など無いと言う事実があればいいのか。実際そんなの無い。うん。じゃあ別に誤解を解かなくてもいいんだ。解決した。


と、思ったけど全然解決してない。誤解を解かなかったことで莫大な不利益を被った事があった。もしこれからも解かなかったら、また起こってしまう。それはいけないわやっぱ。結局、今まで書いてきた事は、僕が他人に意見を伝えるのが苦手だということを覆い隠そうとしてきただけ。それが一番の問題で、昔から解決しようとしてきたのに、結局解決し切れなかったからまた封印してしまってたので、今こうして掘り起こしてまた日の目を見た。


他人に意見を伝えることってそんなに難しいことではない。でも、突然とてつもなく難しくなる時がある。その時が一番意見を伝える必要がある時のはずなんだけれど。だからやっぱりこれは解決しない。

自分の誤解

自分の誤解というのは、自分が自分自身に持っている誤解の事。○○が好き、○○が嫌い。大体誤解みたいなもの。何かを好きになるのに理由は無いし、嫌いになるのにも理由は無い。理由は常に後からつけらえる。なんて言うと哲学じみているけど、「常に」ではないけど結構そうだよねとは思う。


だから、嫌いな事はあまり気にしないことにする。生理的に嫌いというのは仕方ないけど。いやもちろんそれも少しは疑いますよ。自分を取り巻く環境によってそれが嫌いになっているだけだったりするだろうし。その辺の認識に疑いは持っておく。ただ持ち過ぎてもしゃーないので、そのあたりはバランス感覚を発揮しませう。


逆に好きな事は疑わない。理由を求めない。放っておく。誤解だと気付いても気付かなくても好きは好き。そうすれば誤解ってすばらしい。楽しい。誤解で好きになっちゃえばいい。間違えて好きになってのめりこんでしまったら幸せ。たとえ好きじゃないと気付いても、そこまでの過程が楽しくなかったらのめりこまないし。


だからポジティブ教徒じゃないけど、好きに転がった誤解は放置する。今日見つけた、ああこれ好きかもしれないという誤解を誤解のまま、その感覚を頼ってしまう。ただ好きになっただけなんだけどね。