四半世紀が経って

先日、誕生日を迎えて26になった。生まれてから四半世紀、歴史を生きている感じが出てくる頃だ。最近、本当に生きるのが辛くて、ここに書いている日記も全部生きるの辛いの変奏曲だと思って過去ログを見てみたら意外にそうでもなくて、なかなか不思議な気分。ただ単に昔はまだ生きるの辛いを書かないで済む余裕があっただけかもしれない。実際ここ数年の誕生日の記憶を掘り起こすと、残りの人生も辛いのかと思ってばかりだったので、多分ずっと生きるのが辛い。
生きるの辛いって書いたところでなんも解決しない。じゃあ、行動しないとねみたいな話はすべて地獄の釜の火にくべたい。いい話は苦手である。現実を見てないから。ある状況を見て良い部分しか見出さない人間は道徳の教科書には出てくるかもしれないが、現実には仕事で使えないタイプの人間である。と、書いてみて仕事がすべてかいなって気分になる。現状、仕事がほぼすべてである。とはいえ24時間365日は出来ない。その中途半端さもまた生きるのが辛い原因だろう。
生きるの辛い話をそのまま書くと特にバリエーションがないんだな。書いてて思うけど、コレ昔書いたなってフレーズばかり。幸福は多様だけど、不幸は一様であると誰かが言ってたっけ。整理しようにも最初からのっぺりとしたテクスチャで、そのままお食べ感しかない。豆腐か。というかのっぺりし過ぎてて解決策は見え過ぎていて、整理したところでそれ突きつけられても困るからなー。不幸に安住しているってことか。
フィクションだとお前は自分の人生を生きていない!とか罵られる場面に来た。涙を流して悔いればよいのだろうか。その後、心を入れ替えて前向きに生きておまけページにバラ色の人生の一幕が載る。よくよく考えるとフィクションじゃなくても、現実でもそういう消費を著名人に対してするときがある。まぁ、フィクションの中に生きても居ないし、著名人でもない人間なんで、そういうことは起きない。と思ってたけど、過去に不登校になった時に、僕の担任が似たような罵倒をした気がする。とりあえず泣いた気もする。その後、特に理由なく授業に出るようになったんだが、僕以外の関係者は案外そういう物語として消費したのかもしれない。
こう書くと大人になると怒ってくれる人がいないって話になってしまう。あれは嫌いだ。子供には怒ってやって大人には怒らない人間なんて信用しないほうがいい。そういう属人性の問題はともかくとして、話の前提として人間はよりよく生きなければならないってのがありそうだ。愚行権の一言で終わりの話だが、生きるの辛いに戻るとまたややこしい気がしてきた。生きるの辛いに安住するのは愚行権の行使?なんかそれでいいのかもしれない。僕は不幸であることを選択していますって。