不幸の落ち穂拾い

最近書いてない感じの日記を書く。
同級生の女の子にプログラミングを教えてたら、これはこういうふうに出来るんよーとかいろいろと自慢めいて教えてしまった。今更ながら自分の中の他人に良く思われたいという気持ちの強さに逆にびびった。このごろ、不特定多数への親切心を切り捨ててきたので。春で浮かれているのかな。雨だったけど。
20代もそれなりに過ごして、結構な長さをつき合った友達が変わっていくのを見ていると、宇多田のULTRA BLUEをよく聴くことになった。もっと仲良ければ相手の変貌に対してもっと関与したかなと思うけど、よく分からない。もう僕にはついていけないところまで行った人もいる。Making Loveと誰かの願いがかなうころの2曲がまさにぴったりすぎて怖くなる。そこからWINGSとBe My Lastで最後のPassionを聞く。Passionで前向きに終わるかと思うけど、あれは決別の歌なのでそういうことなのだ。
自分を楽にするために積極的に鈍感さを使って来たけど、それも終わりにするときかな。それでも構ってちゃんを構うほどの慈悲は持ち合わせていない。そんなキャパシティはない。でも、昔の自分を構ってくれた人達*1への恩返しのためにもその役割を引き受けたらという脳内の声が結構煩わしい。というか、そこに戻ったらどうするの?という声に戦慄している。
現状のまま行くと将来崩壊するのではないかという危惧がそれに加わって大変だ。より楽に生きるために作った壁で楽に生きれていると思ったら、壁を作るコストとその壁に微細な欠陥があったことで楽になってないのではないかという状態。環境が変わるとこのモデルは完全に崩壊してしまう気がしてならない。崩壊した所で今自分がいるところを幸せと定義出来るから勝ちな気はする。それは社畜体質かもしれないけど。
ここまで書いたこと全部、今が幸せであることを肯定出来てないから、その結果としての不幸の落ち穂拾いでまとめられそう。今、たぶん人生の中でもかなり幸せな所にいる。その状態に慣れていない。不幸を探しにいこうとしている。たわけ。

*1:そんな人達って結局家族だけな気はする