大学の良さについて(いわゆるFランも含めて)

日本の大学全体について、いわゆるFラン、低偏差値の大学は必要ないとかトップ校だけを残して集中させるべきとかって意見を結構見かける。これに対して統計的な反論として、いわゆる低偏差値の大学でも学力が向上するし意味あるよっていう話はSYNODOSかどっかで経済学者がしてたと思うのだが、それはさておき、僕はそういう統計的な面からではなく、大学という場所が提供するものそのものに良さがあってそれは、大学のレベルの差に関係なくあると思うので、大学の存在ってすごく良いと思ってる。だから大学の数を減らすよりもむしろ増やして学費を無料にし誰でも入れるようになってほしいのだ。じゃあ具体的にお前の考える大学の良さってなによ?ってことになるが、理不尽が少ない場所であること、学問をする場所であることの2つだと思ってる。

理不尽が少ない場所

僕の人生の中で、最も理不尽が少ないのは大学だった。大学を出て働きだしたら理不尽なことが多かったし、その前の義務教育と高校もまた多かった。一方、大学は理不尽なこと自体は他と同じくそこそこあるが、デカい理不尽、パワハラやセクハラみたいなことが全然少ないというかほぼなかった*1。あったとしてもちゃんと報告すればちゃんと対応されるんだろうなっていう安心感があった。大雑把に言うと大学にいたときが最も自分が人間として扱われている*2と感じた。

学問をする場所

大学とは学問をする場所である、ということに誰も異論はないだろう。高校まではそうではないからしんどかった。高校までの先生は、何かの教科を教えている仕事を権力関係を確認し教え込む仕事の補助でしている、という人ばかりだった。国語の作者の意図を問う問題と同じで、実際に作者がそう思ってることよりも、ある思想がありそれに基づいてる答えを出せというやつで、先生たちは生徒の学力が向上することよりも扱いやすい人間であることの方が喜ぶんだなと思っていた。先生たちの意図したとおりにぶつくさ言わずに動くことが求められている、と。質問とか議論とか全然推奨されなかった。高校までの教育でそれに慣れたので、大学でもそんな感じでいたら、どうも大学の先生たちは違うな……と3年目ぐらいで気づいた。質問しても嫌がらないし、言われたことなんでもしますよって姿勢をしても喜ぶことはない。そこで恐る恐る自分の意見とか言ってみたり、先生の意見に反発してみたりしたらむしろ面白がってくれて、ああ、本当に自分の意見を言っても怒られないのだと気づけた。プラトンが質問とそれへの回答という形で著作を残したように、学問において質問というのは大変重要で、大学の先生が質問を喜ぶのはごく自然のことなのだが、個人的にはここの体験がとても大きくて、洗脳から解けた、というぐらいのインパクトがあった。
研究が学習と本質的に異なることを知れたのもまた、面白い体験だった。スキルを身につけることと知識や体験の探求というのはぜんぜん違う。研究という手法をうまくやれるかどうかは、知識量の多寡では決まらなかった。基本的には試行錯誤で、しかし試行には大量の失敗がついてくる。でも受験勉強では大量の失敗という経験を提供してくれなかったので、当初はまったく慣れなかった。そのうち受験勉強と同じ列にあるものではないことに気づいて、むしろこれは図画工作とか美術の授業側だって気づいた。中等教育では傍流とされている科目が研究においてはこんなに重要とは……と振り返ってみて改めて思った。

おわりに

大学の良さとしてあげた上記2つは相互に関わっていて、学問をする場所である、という分かりやすい目的があるから理不尽が少ない(学問をする場所だよねーって合意があり、基本的に規則等がそれに沿うから)という面もあるし、学問というのはそもそも理(ことわり)の追求だから理が不尽であることが少なくなるということもあると思う。そんな大学に入って、なんて自由でいい場所なのだ!って思って大学出たら、また不自由や理不尽がやってきて改めて大学の良さを噛み締めてるので書いてみた。一旦働いてから大学院に入ったほどだしね。今、大学は国の方針で変えられようとしていて、これらの良さも無くなってしまう方針が垣間見えて、それがとても残念だ。

*1:但し学生の場合のみで教員や職員の場合は話が別だと思う。非常勤講師問題や雇い止め、運営交付金の年1%減など

*2:今働いてる環境もそうなのだが、前はそうではなかったので勝ち取った感じが強く、無条件で人間扱いされない絶望がある