お正月にとりとめのない冷たい社会の話

いつの間にか交友関係に恵まれていて、具体的にはそこそこ会う交友関係というのがたぶん5より上、10はいかない程度のクラスタに存在している。他人と話すとその多さに驚かれてこっちがびっくりしたのだが、たしかに話してみると多くの人は5つもないようだ。というか複数個あるだけでも、もしかしたら珍しい。僕の場合、多くがネット、特にはてなTwitterの知り合いから発展したものなのだけど、どうやらこれは結構生きる上で得するスキルらしい。

このスキルに欠ける人がSNSを始めると、承認欲求が得られる嬉しさゆえのフィードバックループでインターネット戦士*1になってしまう事象を観察してきたので。もう随分前に流行った言葉だけど、「駄サイクル」もまた、これと同じ問題かもしれない。しかし、親には駄サイクルにハマってもらうほうが、ネトウヨになるより100億倍マシよね……。

そういうのを観測するとゾッとする。人とはここまで平たく薄くなれるのか、と。もっと重層的で複雑な立体物としてあったはずの人格が、すり潰されてしまっている状態。そしてそのプレス機は社会そのもので、日本社会らしい事件があると、たまにそのプレス機が目に見えて現れる。例えば学校、例えば世間の目。

友達と話すと、少なくともアジアで最も人に冷たいのは日本のようだ。いや、主語も述語も大きすぎるだろうって気がするけど、ちょっと旅行してみて僕もそう感じるところだ。人であることの上に役割が来ている国という印象。店員は人ではなくまず店員の責務を果たさなくてはいけないのが日本。それはよくシロクマ先生が言っている話、濃密な人間関係から我々は逃避してきたので当然の帰結ということなのかもしれない。

こうダラダラ書くのも久しぶりで、全然パラグラフがまとまってくれない笑 そろそろ終わらせたいんだけど、冷たい社会だねって話で終わらせたくはない。もしかしたら、冷たい社会に抵抗して棹さしていこうと意識して生きていることで、僕は得をしているのかもしれない。だとしたら今は砂漠に水を撒いてるのかもしれないけど、いつの日か木が育ち森になっているのかもしれないね。

*1:ネトウヨ表現の自由戦士、ツイフェミ、ソーシャルジャスティスウォーリアなどを総称してみた