誠実さが希少化しつつある社会

これはただの僕の肌感覚なのだけど、近年、社会全体で誠実さが希少化したし、それはなお進行中であると感じている。第二次安倍政権の振り返りで、法令違反、モラルハザードが上からトリクルダウンしたという論があったけども、どちらかというと下部構造である社会のモラルハザードボトムアップした結果が今の与党政府の状態と思っている。

ずっと日本の社会というのは基本的人権が尊重されないなと思っていた。でも、それもまた上部構造であって、下部構造は信義則の無さ、誠実さの無さの方なんじゃないか、そう思うようになったのが最近。すごく些細な例に思えるけど、就活の基本としてよく言われる「大きな嘘はダメだけど、小さな嘘は良い」みたいなのが、社会を蝕んでしまったように感じている。すごくプレゼンがうまいし、質問に自信を持ってすぐ答えられてるけど実は進次郎構文で何も答えてないみたいな人が評価されて、実際には噛み合わない回答をしているので実務遂行能力がなくて崩壊するプロジェクトをいくつも見てきた。その崩壊を仕方なく支えてあげて、プレゼンがうまいだけの人の評価を上げてしまったこともあると思う。残念ながら。

かつてSFCに入学したゼロ年代後半の頃、SFCは学年制限のある授業が存在しないので4年生、大学院生と一緒に授業を受けることが普通だったのだが、授業の最終発表で4年生の人が美しいプレゼン資料でなめらかな弁舌でとんでもなくショボい成果物を発表するのをしばしば見かけていた。当時の1年生は割とプレゼンは下手だが、時間をかけてそれなりの成果物を仕上げている人が多かったと思う。つまり大学でそのハッタリスキルが磨かれていたわけだ。ところが今少々意識の高い高校生は、すごくプレゼンがうまいのである。高校生の時点で。彼らと接した感覚としては、問題解決能力よりも先にプレゼン能力を磨いている印象で、今の時代だなと思ったエピソードだ。

もうひとつ、王道が信じられずにハックが持ち上げられ過ぎているとも感じていて、つまり法律やルールをハックして運用することがカッコいいことになりつつあるのではないか。例えばふるさと納税は税の三原則(公平、中立、簡素)すべてに反している制度だが、それを完璧に使ってみせる俺たち(制度を作った人と利用者)カッコいいになっているというか。学生時代のサークルで、会費値上げしたいっていう執行部側の提案に対して、まず現在の使途を示して欲しいと訴えるも何故か言を左右にして公表してはくれず、そのまま多数決に入って執行部側が多数を獲得して会費が値上がったことがあった。今思いだすと第二次安倍政権下の国会そっくりなのだが、中でも筋を通すことにオーディエンスが無関心という点が最も悲しいことだった。

再び仕事の話。今プロジェクトをしていると、プロジェクト内で信頼できる人(=誠実な人、対立している状態でも誠実な敵のほうが嘘つきの味方より百倍マシ)を探しておいてリスクを回避するのが必須スキルで、まず人を信じない状態をデフォルトにしておく必要がある。これは当然ビジネスのコストも上昇する状態で、こんな社会にどうしてなってしまったのかな……と思ってしまう。しばしばこの問題で発注先との関係が崩壊してうちの会社と取引を始めるパターンがあるのだが、客側に問題あるなーて時も多く、そういう相手にはこちらからも仕事をお断りするようになってきた。

今年「最初からステークホルダー全員が誠実に仕事をすれば、こんなことにならなかっただろうに」と何度も思った。問題を解決していくには誠実さは今も価値を持っている。いや、むしろ誠実さが希少になったのなら、むしろ価値が上がっている。ではなぜ誠実さが社会に実装されていかないかというと、それが評価されないからだ。進次郎構文のような間違ったコミュニケーション能力は誠実さとトレードオフで、前者のほうが社会に評価されてしまっている。

どうか、これから若い人たちがプレゼンや面接やセールストークの時に小さな嘘はついて良い、仕事を取ってしまえば、就職してしまえば多少の瑕疵は見逃される、結果良ければ全て良しといった認識をしない社会になってほしいのだが、もう手遅れかもしれない。