宇多田ヒカルのコンテンポラリーダンスはうまい。作為を感じにくい、しかし踊っていないとは言えないうまさがある。ここで言う「うまさ」は、技術的なうまさではなく、曲や空間との距離の取り方が、きわめて適切に見えるという意味でのものだ。
「Electricity」の衝撃
NHKの番組で「Electricity」をコンテンポラリーダンサーのアオイヤマダと共演したパフォーマンスを見た時、アオイヤマダよりも宇多田ヒカルの身体のほうが自然に見えてしまう瞬間があった。ダンサーの身体能力の高さがむしろ作為的に見えてしまうという逆転が起きてしまっていた。
(ここにYoutubeを貼りたいのだがNHKがアップしてくれてないので無理で悲しい)
そのパフォーマンスでは歌手であり、作為の見えないコンテンポラリーダンサーであるという状態が成立していた。これ以前の宇多田ヒカルは、近年の歌中心の構成になっても、歌うアーティストとしての所作にはどこか演技をしているようなぎこちなさがつきまとっていた。それが「Electricity」では、あまりにも自然に身体で表現しながら歌えていたのだ。
個人的には、宇多田ヒカルが多人数の前で歌うときに、ようやくしっくり来る身体表現を手に入れたと感じられて、安心した。
訓練された動きを見せるのではなく、空間に条件を置いて動作を行う。コンテンポラリーダンスの基本だ。それが自然な人というのも変だが、本当に自然に見えてしまうのでちょっとおかしい。しかし、同時に感動的でもある。そんな不自然なやり方が、結果的に人前に立つための、静かな居場所を与えた。宇多田ヒカルにコンテンポラリーダンスを踊らせようと思った人がいたことには、まじで感謝している。
歴史
経緯を見ていこう。宇多田ヒカルのコンテンポラリーダンスの歴史を振りかえると、踊っているMVが二つある。「Forevermore」「何色でもない花」だ。
2017年の「Forevermore」で、宇多田ヒカルは、はっきりと踊っている。ただしそれは「歌手が踊る」姿ではない。歌はすでに音源として完結していて、宇多田ヒカルの身体だけが、ほとんど無言のまま動いている。曲の抑揚と身体の抑揚を、すこしのグルーブ感を足して一致させている。
2024年の「何色でもない花」では、コンテンポラリーな傾向がさらに先鋭化する。動きは減り、止まりが増え、踊っているというより「空間に置かれている身体」に近づいていく。特殊な撮り方も意味を宙吊りにする手助けをしている。ここでも歌手としての所作は前に出ない。
そして同じく2024年の「Electricity」で達成されたのは、その身体のあり方が、初めて「歌うこと」と同時に成立した点にある。歌手であることをいったんなくす必要もなく、逆にダンスを装飾として切り離すこともなく、歌と身体が同じ時間構造の中に置かれている。結果として、歌手が踊っているのでも、ダンサーが歌っているのでもない、しかし両方であるという、これまでになかった状態が現れた。
この話を考えていると、2003年の「COLORS」のMVを思い出す。当時、結婚していた紀里谷和明氏はMVを評して「構築的に撮るね」という言葉を使っていたと記憶している。「COLORS」では、宇多田ヒカル自身は歌手として中央に置かれ、途中で差し込まれるダンサー二人が、箱に押し込められた構造物のように扱われていた。今になって見ると、あのときダンサーが担っていた「空間を成立させる身体」という役割を、いまは宇多田ヒカル本人が引き受けている。
簡単に並べると、次のような流れになる。
| 2003年 | COLORS | 歌手として中心に置かれ、ダンサーが構造を担う |
| 2017年 | Forevermore | 歌は音源になり、ダンサーとして構造を担う |
| 2024年 | Electricity | 歌手でありダンサーである状態が同時に成立する |
一番しっくりくる身体表現方法がコンテンポラリーダンスの人
面白いのは、「歌手としての宇多田ヒカル+ダンサー」という配置よりも、ダンスしている宇多田ヒカルだけのほうが、曲の魅力を引き出している瞬間があることだ。削ぎ落とすなら、本人に歌わせず、音源で鳴らして本人を踊らせるほうがしっくりくる。
「Forevermore」がやはり転機だったと思う。当時の宇多田ヒカルは、歌うアーティストとして完全に確立されて、普通に本人出演の歌うMVもやる気がない。その中で、歌わせずにダンサーとして配置する、という判断がなされた。映像的な効果も抑制的で、ほんの少しだけ建築とCGで演出する構成で、見せるものは少なくとてもシンプル。ここまでミニマルにするのは、かなり勇気がいると思う。研ぎ澄まされた、ともちょっと違う。「これが良いんですよ」と伝えてくる映像だ。
その後は少し時間が空くのだが、「Forevermore」以降のMVはかなりコンテンポラリーダンスの影響を感じる。「BADモード」での明確な振り付け、「PINK BLOOD」では歌手部分なのに影響を感じるし、「Gold 〜また逢う日まで〜」で吊り上げられた時などもそうだ。
「綾鷹 meets 宇多田ヒカル ‘traveling’』スペシャルムービー」は特に出色の出来で、オリジナルの名作MVをオマージュしつつ、ブランドメッセージの「自分のリズムでいこう。」が、宇多田ヒカルがコンテンポラリーダンスに出会ったことで「ようやくしっくり来る身体表現を手に入れた」というストーリーに繋がっている。オリジナルよりも自然に演技できており、無理のないダンス、そして『BADモード』で標榜したベッドルームダンスミュージックを示すかのような複数人でもひとりでも踊るシーンが他人の集団が明滅することで短い時間の中で表現されている。
リップシンクしてないのに自然で、そんなことはどうでも良いと思わされる。自分のリズム掴めたんだね、と言ってあげたくなる。本当によかった。
あとがき
今回はチャッピーと話しながら書いたので、ちょっと自分ぽくない表現もあるなぁと思いつつ、記事的にはそれ良いじゃんってなったので採用してみました。編集者か?わりかしええやんと思ったんだけど、みなさんはどうかしら?FF内の方はおたより、ご感想、受け付けております。
あとアフィリエイトでなんか買って。肝心の動画がないのが悲しかったけど、『SCIENCE FICTION TOUR』の「Electricity」でほんの少しだけ披露したダンス部分にエッセンス詰まってると思うので、チェキラ。

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